久々の音楽的自分史ですが女性アーティストの事を書いてないのに気づきました。
サディステック・ミカ・バンドとかシュガー・ベイブなどメンバーに女性が入ってるものはエントリーしてるのですが、単独となるとありませんでした。
それで誰を一番にと考えたのですが、あまり女性アーティストというのは聴いていない私なのですが、最近また気になっている宇多田ヒカルさんにしました。
2月20日にニュー・シングル「HEART STATION / Stay Gold」が出るそうです。
彼女のデビューほど衝撃的なものはありませんでした、
1998年12月の年末に故郷の仙台に向けて東北自動車道を3人の息子を乗せて走っているときにラジオから流れた「Automatic」に心躍らされてCDショップに足を運びました。
そしてそこには“あの藤圭子の娘がデビュー”との文字が、「はぁ」っという感じでしたがCDを聴いてみてそんなことはどうでもいいことだとわかりました。
「Automatic」もカップリングの「time will tell」も、この時15歳だった彼女の作品とは思えないほど素晴らしい曲でした、まさしく天才が現れたと思いました。
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久々の音楽的自分史ですが、今回は最近車の中でよく聴いているレーナード・スキナードのライブ・アルバム「One More From The Road 」(1976年発表)にちなんでにレーナード・スキナードついて書こうと思います。
レーナード・スキナードはオールマン・ブラザーズ・バンドと並ぶサザン・ロックの代表的なバンドです。
ギター・サウンド好きの私にとってはトリプル・リード・ギターというのが堪りません、そのトリプル・リード・ギターが遺憾なく発揮されてるのが、バイク事故でなくなったオールマン・ブラザース・バンドのギタリスト、デュアン・オールマン氏を追悼して歌われた名曲“Free Bird”です。
ライブでは15分近くあるこの曲は前半ゆったりとした演奏で始まりますが、後半に入るとトリプル・リード・ギターが炸裂します、延々と続くギター演奏はまさにギター・バトルそのもので迫力満点です、車の中で聴いていも鳥肌モノです。
ライブ・バンドとして充分本領を発揮したこのライブ・アルバムは私が好きなライブ・アルバムのBest 3に入ると思いますが、ただ残念な事にこのライブ・アルバムの次に1977年に発表されたアルバム「Street Survivors」の発表から3日後、彼らは飛行機の墜落事故に遭遇してしまいます。
おかげでバンドのヴォーカルであり顔であったロニー・ヴァン・ザント氏とギターのスティーブ・ゲインズ氏がこの世を去り、バンドは解散へと追い込まれてしまいました。
そして、その頃噂になったのがアルバム・ジャケットの写真で燃え上がる街をバックに立つバンドのメンバーたちの中で、亡くなった2人の頭の周りに炎が燃え上がっているのが不吉の前ぶれだったのではないかということでした。
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春分の日はお彼岸という事で奥さんの墓参りに行って来ました。
実は今回のエントリーのロッド・スチュワート氏は奥さんとの思い出深いアーティストなのです。
そして福生の米軍ハウスで奥さんと一緒に暮らし出したのがサンハイツCー15でした。
Cー15にちなんで音楽的自分史15番目のエントリーをロッド・スチュワート氏にしようと思います。
奥さんと付き合い出して共通で好きだったアーティストがまずロッド・スチュワート氏だったと思います。
そして一緒にコンサートを色々と見に行っている中で、唯一の外国のアーティストがロッド・スチュワート氏だったと思います。(すいません記憶が曖昧なところが多くて、でも外国のアーティストはそれほど多くは見ていないので確かだと思うのですが)
自分たちでチケットを取ったのですが、運良く武道館のアリーナ席のかなり前のほうの席が取れて二人で大喜びをした記憶があります。
そのコンサートは1978年の9月にあったようで、我が家にはその時のコンサートのパンフレット(写真左下)が残っていました。
コンサートで演奏した曲はその年に出したアルバム「スーパースターはブロンドがお好き」(写真右下)からの曲が多かったと思います、特にヒット曲「アイム・セクシー」はディスコサウンドのノリノリの曲だったので会場の盛り上がりは凄い物がありました。

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愛奴〜あいやっことは読みません。
あいど(AIDO)です。
知らない人が多いと思いますが、あの浜田省吾さんがいたバンドです。
そして、ザ・バンドがボブ・ディラン氏のバック・バンドだったように、はっぴいえんどが岡林信康氏のバック・バンドだったように、吉田拓郎氏のバック・バンドだったのが愛奴なのです。
一方シュガー・ベイブはあの山下達郎氏が率いたバンドです、当時大瀧詠一氏のバックコーラスなどをやっていましたね。
このふたつのバンドは共通した点がいくつかあります、まずデビューが1975年の4月と5月でほとんど一緒のデビューでした。
浜田省吾氏は1枚目のアルバムの後に脱退しています、結局愛奴は2枚のアルバムを出してで解散してしまいます。
山下達郎氏はシュガー・ベイブを1枚のアルバム出しただけで解散してしまいます。
そして浜田省吾氏も山下達郎氏もソロとして大成功を収める訳ですが、実は一番の共通点は下の写真のアルバムジャケットにあるのです。

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車で出かける時エンジンをかけて最初に流れてくるBGMにこだわる事はありませんか。
私がさあ出かけるぞと気持が盛り上がるのがレッド・ツェッペリンの「When the levee breaks」なのです、重厚なドラムの音で始まりブルース・ハープがからみ、巨大なロボットがゆっくりと動き出すような迫力のある曲は、まるで自分が巨大ロボットの操縦席に座っているような錯覚をしてしまいます。
なぜこの曲を気に入ったかというと、2年前に神宮球場に東京ヤクルトスワローズの試合を見に行った時、古田選手がバッターとして登場する時に球場の大型スクリーンに映像と共に流れてきた「When the levee breaks」がめちゃくちゃかっこよかったからなのです。
この曲が入っているレッド・ツェッペリンの4作目のアルバム「レッド・ツェッペリンIV」はロック史上に残る名作アルバムです。


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高校3年生の時に地元の仙台のラジオ番組に出た事がありました。
日曜日の午前中にあったその番組は洋楽専門の番組でリクエストのハガキを送って読んでもらうのがすごく楽しみでした。
その頃はミッシェル・ポルナレフ氏の「シェリーに口づけ」やシルビー・バルタンさんの「あなたのとりこ」(映画「ウォーター・ボーイズ」で使用されている)などフレンチ・ポップスが流行っていたのを覚えています。
そんな中、番組の中に高校のクラブ活動を紹介するコーナーができたのです。
ここぞとばかりにハガキを出し、早速第一回目のゲストとして呼ばれる事になりました。
そして、その頃所属していた美術部の部長のM君と副部長の私とで山の上にあるラジオ局へおっちら、おっちら、出かけて行きました。

続きを読む "音楽的自分史.その12〜ラジオの思い出" »
最近テレビでドラマ「東京タワー」を見るたびに、1972年にひとり東京へ上京してきた頃の事を思い出してしまいます。
最初に通った学校は地下鉄丸の内線の新高円寺駅から歩いて5分程のところにあった阿佐ヶ谷美術学院の受験部でした。
デッサンや平面構成などを学んで美術大学を目指す人たちが、全国あちらこちらから集まってきていました。
そんな中で私は一学期はあまり同じクラスの人とは話す事が出来ずにいたのですが、夏休みの夏期講習のあたりから徐々に他の人と話が出来る様になり、二学期にはクラスのみんなと仲良くなっていました。
そんな中で友だちに連れて行ってもらった中央線の高円寺駅の近くにあるロック喫茶「キーボード」と「JINJIN」は私のようなロック好きに堪らないお店でした。
アパート住まいでは大きい音で音楽を聴く事ができなかったし、その上聴きたいレコードをすべて買うお金もありません、そんな中でロック喫茶はその両方を満たしてくれる最良の場所だったのです。
続きを読む "音楽的自分史.その11〜ロック喫茶" »
イーグルスはアメリカのウエストコーストを代表するバンドで、私が最も好きなバンドのひとつです。
1973年米軍横田基地のある福生という町にやってきた私はそこにアメリカのウエストコーストの風を感じていたのでしょうか、映画「イージー・ライダー」を見てアメリカの雄大さ、そして若者の文化や音楽に憧れて青春時代を過ごしていた私にとって福生という町はアメリカを身直に感じることができる町だったのでしょう。
米軍ハウスというアメリカ的な住空間に住んで、アメリカの音楽を聴く、あの憧れていたアメリカに少しでも近づけた気分だったのではないでしょうか、でも食事は分厚いステーキではなく、せいぜい挽肉を使った料理が関の山でした。
隣に住んでいたアメリカ人のバーベキューでごちそうになったハンバーグはでかくて美味しかった、そしてなんとか会話をしようと辞書を片手にがんばったのですが、単語ばかりで文章にはならない英語でもなんとか通じていたのだろうか、基地の中でちょっとした買い物をしてもらったり、子犬を貰ったりしていた。
でも貰った子犬を隣人は「ポピー」と呼んでいたので、私たちも「ポピー」という名前で呼ぶことにしたのですが、後で「ポピー」とは英語で子犬を呼ぶ時の愛称だと言う事が判明したのでした。
そんな福生のハウスでの生活に一番似合っていたのがイーグルスの音楽でした。


続きを読む "音楽的自分史.その10〜イーグルス" »
1989年8月26日の夕方、私は福生の仕事場から日高の自宅に帰るため横田基地沿いの国道16号を車で走しりながら、どうしようか迷っている事があった。
その日、所沢の西武球場であるレッド・ウォーリアーズの解散コンサートを見に行くかどうか決めかねていたのだ。
そして瑞穂町を通り過ぎた辺で所沢方面に向かっていた。
西武球場に着いた時にはもうコンサートは始まっていた、2曲目の「ショック・ミー」が聞こえてくる中を急いで球場の中へ、ステージは外野のセンターあたりにあり、すり鉢状のスタンドとグランド上には沢山の観客が埋め尽くしていた。
レフトスタンド近くの入り口からぐるりとバックネット裏を通って、ようやく着いた一塁側内野スタンド席にから見るステージは遠くに小さくしか見えなかった、それでもステージ上のレッド・ウォーリアーズのパワーは十分に伝わってきた。
演奏曲の曲順は覚えてないが、「カジノ・ドライブ」や「キングス・ロックンロール」などご機嫌なロックンロール・ナンバーに気持ちが高揚してくるのを覚えた。
そして「モンキー・ダンシング」で最高潮へと、観客全員が曲に合わせてあの懐かしい、両腕を胸の前で上下させるモンキー・ダンスを踊っているのだ。
この頃のレッド・ウォーリアーズはまさに日本一のロックン・ロール・バンドだと思っていた。
がしかし、皮肉な事に私が見ていたのは解散コンサートなのだ・・・・
コンサートの途中で観客をバックにメンバー4人の写真を撮っていた、その写真が2枚組のベストアルバム「RED SONGS」のジャケット写真として使われていた。

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先日、CS衛星放送のフジテレビ721で「Char meets 泉谷しげる TALKING GUTARS」という番組を見た。
この番組は毎回ゲストとチャー氏がギターを弾きながらセッションをする合間で会話をするという、ギター好きにはたまらない番組である。
今回の泉谷氏はギタリストとしてのイメージはあまりありません、確かにテクニックこそないとは思うのですが、あの全身でギターをかき鳴らす姿は魂のギタリストとでも言っても過言ではありません。
私が最初に泉谷氏を聞いたのは1972年に東京に出てきて、東小金井の四畳半のアパートに住んでいるころだったと思います。(いかにもフォークソングが似合うシチュエーションだ)
その頃、吉田拓郎氏の出現によりがフォークソングの人気がでてきて、吉田拓郎氏と同じレコード会社(エレック・レコード)からライブアルバム「泉谷しげる登場」でデビューした泉谷氏は、ヒットした「春・夏・秋・冬」などのイメージからフォーク歌手と思われているかもしれないのですが、その後のアルバムなどを聞いてみればわかるのですが、(私がお勧めするのは「90'sバラッド」)泉谷氏は日本でもっともロックしているアーティストといってもいいのではないでしょうか。
チャー氏も「泉谷ほどロックしてるやつはいない」と言っていました。
ところで番組の中でまだ十代の頃のチャー氏が泉谷氏のライブでギタリストとして初めて参加した時、「お前は俺より目立つからクビだ!」と言われたという話があり、その後はお互いに本当の事を言い合える仲間になれたという、なかなかいいエピソードがありました。
でもなぜか年上の泉谷氏が「チャーさん」と呼び、年下のチャー氏が「泉谷」と呼び捨てにしている関係は何なんだろうと思ってしまいました。
続きを読む "音楽的自分史.その8~泉谷しげる" »
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