掲載された文章をそのままアップさせていただきます。
シルクスクリーンに最初に出会ったのは今から44年前の仙台の高校の美術部だった時に、美術部の顧問の先生が東京から材料を取り寄せてくれて写真製版で版を作るところから教えてくれたのが最初でした。
当時、身近にあった印刷といえばガリ版印刷くらいでしたからシルクスクリーンで色を使った印刷が出来るというのは本当に驚くべき事でした。
そしてシルクスクリーンで最初に印刷したのは自分たちの高校の文化祭のポスターでした。当時は自分たちでポスターを印刷することは画期的な事で、自分にとってはシルクスクリーンとの運命的な出会いとなりました。
その後、高校を卒業して東京のデザイン専門学校に通いデザインを学びながらも、最後の1年間は神田の神保町に今でもある美学校のシルクスクリーン工房(現在、我が家の三男が通っています)でそれまで自分流でやってきたシルクスクリーンを一流のプリンターである岡部徳三先生に基礎から技術を教えていただました。
その1年間はシルクスクリーンの可能性とか素晴らしさを感じとることができ、一生の仕事としてやっていきたいと心に決めました。
その時、美学校で一緒に学んだ仲間とオリジナルTシャツのプリントを始めたのが、今のパイナップルファクトリーの原点となりました。
最初に東京の福生で始めた頃は刷り台は手作り製版は美学校時代に特注で作ってもらった物を、製版用のフィルムは写真の引伸し機を使って暗室作業で作っていましたし、プリントしたTシャツの熱処理もアイロンで1枚づつの手作業でした。
そんな中でプリントしたオリジナルTシャツは当時としてはまだまだ珍しいせいもあって、渋谷や池袋のPARCOで夏の間だけ催事としてのお店をオープンさせてもらい順調に売上を上げていま
した。
ただし夏が終わって秋が訪れる頃にはお店も終ってしまうので、次の年の春まではアルバイトをしがらの生活で安定しない時期も数年続きました。そんな訳で当時は紙の印刷は勿論の事、看板やお店のウィンドウに現場で直接印刷するなどシルクスクリーンをフルに活用して仕事をしていました。
そのうちにオリジナルのTシャツのプリントばかりではなく、オーダーのTシャツのプリントも徐々に増えてきて順調に仕事が動き始めました。特に渋谷にあるアパレルのお店が当時の大学生に大人気で、ウィンドブレーカーへのプリントのオーダーが沢山入り、夏よりも冬の方が忙しいという、今では考えられない時期が数年続きました。
そのおかげで国立にオリジナルプリントショップをオープンする事が出来たり、アメリカへの研修旅行に参加したりとパイナップルファクトリーが大きく変わろうとしている時期でもありました。
特にアメリカへの研修旅行は大変勉強になり、設備や材料など現在のパイナップルファクトリーの原型が出来上がりました。
一方、シルクスクリーンでTシャツのプリントをしながらも横尾忠則やアンディ・ウォホールのシルクスクリーンの作品に刺激を受け続けていてその中でも横尾忠則シルクスクリーンポスター展を見に行った時に、テラノザウルスの大きなポスターに目を惹かれてしまいました、それは「KUMAZAWA」と大きく文字が入った熊沢印刷工芸のポスターだったのです。
その事もきっかけになり縁あって埼玉スクリーン・デジタル印刷匠協同組合に参加させていただく事になってからは、組合それぞれの会社の素晴らしい印刷技術に感銘を受けながら益々シルクスクリーンの奥深さを感じる事になりました。
そんな中、4年前に、今は亡き岡部徳三先生の一番の弟子である石田了一先生が教えているシルクスクリーン教室の存在を知り、1年間シルクスクリーンで版画の制作を続けました。
昨年、その時の仲間からグループ展のお誘いがあり、12月に世田谷美術館のギャラリーで開催され参加しました。
考えてみると展覧会への参加は高校の美術部の時以来だったので、今回のグループ展に参加してみて新たにシルクスクリーンへの思いが強くなり、また、色々な物へプリントをしてみたいという思いが沸き起こり、今年はパイナップルファクトリーが39年目を迎えるのを記念した39(サンキュー)展を企画して、皆さんにもっとシルクスクリーンを知って欲しい、楽しんで欲しいと思っています。